雑談 「労働は尊い」という言葉は正しいのか

労働は尊い、という話を耳にする。本当にそうだろうか。私は違うと思っている。

もし、「働くこと」と「社会の役に立つこと」がイコールであれば正しいかもしれない。しかし、実際にはそうではない。
「働くこと」が「お金を得ること」であれば、それは「労働は尊い」とは言えない。社会に役立つどころか、マイナスの働きをしている人もいるのだから。

日本の労働環境カテゴリで書いてきたように、会社の中には役に立たない仕事をしている人など、山のようにいる。何もしないのだから居ても居なくてもいいというレベルではなく、マイナスの生産性なのだから居ない方がいいというレベルの人達だ。
この人たちは労働をしているけれど、邪魔なだけだ。この、邪魔な人たちにも高額な賃金が支払われている。その高額な賃金は、商品やサービスの価格に転嫁され、最終的には消費者が負担している。
つまり、このマイナスの生産性の人たちの生活を、社会全体で支えているのだ。もし社会全体で支えなければならないのであれば、社会保障で支えた方がいい。会社から受け取っている賃金は最終的に社会コストとなっており、その金額は社会保障の数倍なのだから。この社会保障について、「働かずに生活するのはずるい」「許せない」ではなく、仕事の邪魔をしないでくれたことに対する報酬だと考えてほしい。


また、全ての仕事が社会の役に立つものでもない。役に立たない仕事など、山のようにある。それは、役所の中にも、会社の中にもあるだろう。誰かの仕事を作り出すだけの仕事、というものも珍しくない。それどころが、社会全体から見てマイナス効果の事業もあるだろう。それらも「労働は尊い」とは考えられない。
日本の労働環境 存在自体が無駄な部門の実例でも書いたように、部門自体が無駄だと思えるものもある。
目的もなく穴を掘って穴を埋め戻す、というただそれだけの仕事をしている人がいたとして、それは尊いだろうか。現実に目的もなく穴を掘る仕事はないが、似たようなことをやっている人はいる。役に立たないことをやりながら、それを仕事だと思っている人はたくさんいるのだ。

 

(追記)
記事の中でマイナスの生産性という言葉を使っているが、少し補足しておく。
日本の労働環境 マイナスの生産性とはどのようなものか

 

(追記その2)
少し補足する意味も込めて関連する記事を書いた。
日本の労働環境 マイナスの生産性でも税金を払っていれば価値があるのか
日本の労働環境 社会的意義のない仕事であっても税金を払っていれば価値があるのか