日本の労働環境 マイナスの生産性でも税金を払っていれば価値があるのか

労働は大事だ、そのような意見をよく耳にする。私はそうではないと思っている。そのことは、雑談 「労働は尊い」という言葉は正しいのかでも書いたとおりだ。
働くことが大事だという理由として、「労働して収入を得て所得税社会保険料を支払うことで社会を支えており、この社会を支えるということが重要だ」との考え方を目にすることもある。
社会を支えるという意義があるのだから、マイナスの生産性であっても存在価値があるという論理展開につながるわけだ。私は、この意見に賛同しない。


マイナスの生産性の人間は、やはり害悪でしかないからだ。このマイナスの生産性の定義については、日本の労働環境 マイナスの生産性とはどのようなものかで述べたとおりである。ただの末端職員のことではなく、方針を決めたりする権限を与えられているにもかかわらず、必要な判断力や知見を持ち合わせていない人たちのことだ。彼らの判断次第で影響を受ける範囲はとてつもなく大きいのだ。
彼らは、当然高い収入を得ている。所得税社会保険料も収入に応じて高くなっているだろう。しかし、だからと言って彼らの仕事に意味はない。生産性がマイナスなのだから。彼らの判断次第で余計な仕事が増え、大きなコストとなって社会に跳ね返ってくる。


例えば、適性のない部長職に就いている、マイナスの生産性を発揮しているAさんがいたとしよう。Aさんが自分自身に適性がないことを自覚して部下に権限を委譲し、生産性がゼロであればまだ救われる。しかし、多くの場合は権限を委譲したがらない。
このAさんの年収を仮に1千万円としよう。当然、企業側が負担している人件費はもっと大きい。この1千万円を企業が負担しているように見えるがそれは誤りである。企業は一次負担をしているだけで、製品やサービスの価格として最終的には国民が負担することになる。そして、最終的に国民が負担しなければならないのは、企業が一次的に負担した人件費だけではない。マイナスの生産性を発揮したことに依るコスト分も考慮されねばならない。マイナスの度合いによっては数十倍にも数百倍にもなりうる。

ここで、Aさんがいなくなった場合を考える。
Aさんの立場に、(適性の有無と関係なく)人員が必要である場合。その場合は、別のBさんがその役割に就くだけだ。Aさんの収入をBさんが受け取り、Bさんが所得税社会保険料を支払うだけだ。BさんがAさんより適性が高ければ、その分コストが下がり、企業の利益は増えることになる。そして、元々のBさんの役割にはCさんが就き、Cさんの役割にはDさんが就き、そのような連鎖が起きる中で(人員が必要なのであれば)仕事をしていなかった誰かが新たに職を得ることになる。つまり、企業の生産性は高くなるのに、社会全体で見れば納付される所得税社会保険料は変わらないのだ。
Aさんの立場自体が不要であった場合。単純に人員を削減することが可能であり、企業の利益は増えることになる。このケースでは、納付される所得税社会保険料は確かに少なくなってしまう。しかし、企業の利益が増えることによる波及効果が表れるはずだ。

ここで、企業の利益が増えると述べたが、この例に該当するのが企業内でAさん一人しかいないのであれば、それほど大した金額にはならない。しかし、実際には大多数の役員や管理職は適性を考慮して役職に就いているわけではなく、より適性の高い人員への代替は可能だと考える。企業全体で見れば相当に大きな金額になるはずだ。
その利益をどのように使うか、いくつかの方法が考えられる。まず、ブラック労働として語られることの多い(製造業や物流業に代表されるような)現場の人件費に振り分け、より多くの人員を確保する。現状の人員のまま、現状の社員の給与に上乗せさせる。製品やサービスの価格を下げる。生産性を高めるための設備投資に使う。他にも多数の使い道が考えられる。
そして、これが1企業のみではなく多くの企業で行われれば、間違いなく日本全体での生産性を高められる。そのためにも、多くの人がその人自身の適性に合わせた役割を果たせるよう、社会全体で人員の再配置が行われなければならない。