日本の労働環境 なぜ昔は個人の適性に合わない仕事をしていても日本経済は発展したのか

現在の大きな問題の根っこに、個人の適性に合わない仕事に就いている人が多いことがあると繰り返し述べてきている。このことに対し、先日、とある人から疑問を投げかけられた。「日本は新卒一括採用・終身雇用だったので、昔も個人の適性に合わない仕事をしていた人もいたはずだけど、なぜ昔はそれでもよかったのだろうか」というものだ。


私見を述べたい。
まず、社会全体が経済発展しており、多少のマイナス要因があったとしても発展の方の力が大きく、問題が顕在化しなかった可能性が考えられる。しかしながら、社会全体というのはそれぞれの会社の集合体でもあり、ともに原因であり結果でもあるという関係と見ることもできる。勿論、日本社会全体というのは海外との関係性や日本政府の政策による影響も非常に大きく、無視できないことも分かっているが、あまりに複雑になるので今回は触れない。この側面は、頭を整理する時間も必要であり、別の機会としたい。


別の要因として、誰かが適性の合わない仕事をしていたとしても、それを誰かがカバーしていた可能性がある。昔は個人の業績評価に重きを置いておらず、自分自身だけが業績を上げたとしても待遇に大きな差が出ることもなかった。個人ではなく全体の業績を上げることが求められていたと考えられる。
自分自身の経験としても、誰かが困っている場合には積極的に手を貸したし、私が困っているときには他の人が手助けしてくれたこともある。昔は個人の業績よりも全体の業績が重要であり、相互に助け合う風潮があった。それが可能だったのは、待遇の差が今ほど大きくなかったこともあると思われる。


現在は個人の業績評価が重要視されるようになってしまったため、誰かの仕事を手伝うという動機が大きくならない。それどころか、業績の低い人がいることで相対的に自分の業績が高く見えるのであれば、他の人を手伝わないという動機が生まれることになる。
昔は個人よりも全体の業績が重視されていたため、適性の低い人がいた場合、誰かがそれを補っていたというのが私の考えである。各個人の成果を正しく評価すること自体が不可能に近いということは今までにも繰り返し述べてきている。その前提が正しいのであれば、「優秀だと評価された人」を厚遇するのではなく、各々の得手不得手を補うという企業文化を醸成する方が会社全体の業績が向上するのかもしれない。これは、昔の日本人の気質と旧来の日本企業のあり方が合っていたのだろう。


今となっては成果主義が広く浸透してから二十年以上経過して馴染んでしまっていると感じるし、肯定的に受け入れる人がずいぶん増えてきているようだ。昔とは日本人の気質も変化してしまっている感じがするが、であれば、旧来の日本的企業のやり方に戻そうとしてもうまくいかない可能性もある。まずは旧来の日本人らしさを取り戻すことが先決なのかもしれない。