雑談 「高収入でも税金が高くてやる気をなくす」という意見に思うこと(その2)

前回、雑談 「高収入でも税金が高くてやる気をなくす」という意見に思うこと(その1)という記事で高収入の人の負担を軽くするにはどのようにすればよいのだろうか、そのことについて考えを述べた。今回は、高収入を目指すことがよいのかという視点で述べてみたい。


高収入を目指すことは、個人の生活レベルで見ると、生活を豊かにするなど、良い面もあるだろう。その収入を得たいというモチベーションによって、新しい技術が開発されたり、より多くの人を楽しませる娯楽が提供されたり、確かに良い側面はあるだろう。
そして、役割や責任に応じた収入を与えなければモラル崩壊が起きる、そのような意見も耳にする。確かに、低収入が主要因でモラル崩壊する事例はある。だからと言って高収入であればモラル崩壊しないとは考えていない。社会全体から見ると、高収入を目指す(維持しようとする)ことによる悪影響のほうが圧倒的に大きいと思っている。


なぜ悪影響があると考えるのか、それは収入を得られることで良心を失ってしまうことが挙げられる。どれほど社会に対する影響が大きかったとしても、個人の利益が優先されるようになる。これは、高収入と呼べるようなものではなく、小さな金額でも起きている。
例えば小さなところでは、転売ヤーと呼ばれる存在がある。今年も、新型コロナ感染の第一波が叫ばれていたころ、マスクや消毒液、トイレットペーパーなどを買い占め、高額転売を目論んでいた人たちがいた。しかもそれが相当数いたと思われる。
また、GoToイートの制度を利用して、少額の商品を注文して貰えるポイントの方が多いことで「錬金術」と呼ばれるような利用をしていた人たちもいた。制度の趣旨や店舗側の迷惑等は一切考慮せず、自分の利益のみで行動している。
これらは一件ごとの金額はそれほど大きなものではない。しかしそれでも、不当なことであっても、社会的な悪影響があったとしても、自己の利益のために良心を覆い隠してしまうのだ。


小さな金額であってもそうなのだ。これが高収入と呼べるほどのものであればどうだろうか。良心を失わせることなど簡単であろう。
例えば大手マスコミ。切り取り報道や捏造、様々な手法で世論誘導したり、扇動したり、その結果が社会全体にとって悪影響があったとしてもそのようなことは考慮されない。
次に官僚。いろんな問題が取り沙汰されているが、「資料が残っていない」「シュレッダーにかけてしまった」などの言い訳をしている例もあるようだ。官僚というのは政治家と非常に近い位置にあり、彼らの良心が狂ってしまうようでは困ってしまうのだが、実際には良心を失うには十分な報酬(この報酬には有形無形のものが含まれる可能性がある)があるのだと推測される。
企業の役員や管理職たちも同様である。今までも繰り返し書いてきているが、彼らの多くは適性を考慮されずにその職に就いているため、マイナスの生産性を発揮している例が非常に多い。マイナスの生産性どころか、社会悪とすら呼べるケースもある。某大手メーカーの不正会計、某自動車メーカーや某製鉄会社の不正検査体制などが問題になったことがあったが、これらに代表されるように企業の利益を上げるためには不正なことが行われている。企業の利益を上げるために下請けに対して違法レベルの圧力をかけることもある。これらもやはり自分たちの利益のみが判断基準となっていて、良心が失われているのだろう。


このように考えると、高収入を目指す社会が本当に良いのか、疑問に感じないだろうか。高収入で良心を黙らせるという、今のやり方は問題があるのではないだろうか。自分の行動が社会的に問題があるものだと感じたらその収入を捨てることが出来る、良心が収入に勝つことが出来る、その程度の収入に抑えた方が社会全体としては良い方向に行く気がする。もちろん、職を失った場合のセーフティーネットも担保されていなければならない。
しかし、これも単純に行かない、難しい面もある。それは、労働市場が日本国内だけではなく海外にも目を向けられる時代だということ。日本国内よりも海外の労働市場の方が魅力的に見え、海外への人材流出が加速するだろう。ただ、能力はあるのだけれど環境に耐えられずに職を捨てた人たちもいるので、その人たちを活かすことが出来れば日本の総合力は下がらないかもしれない。その耐えられない環境の中には良心を失わせるような行為も含まれ、収入よりも大事なものを守りたかったのだから、比較的良心を保つことが出来る可能性が高い。収入で良心を無くしてしまったような人たちが舵取りをする場合に比べ、マイナスのベクトルに向かう力が無くなることも考慮されなければならない。


そして、このような、高収入で良心を失った人たちというのは日本国内だけではなく、世界中のいたるところにいるのだろう。そのように思える。