日本の労働環境 アリ社会と比較するのはどうなのだろうか(その2)

以前、日本の労働環境 アリ社会と比較するのはどうなのだろうかという記事を書いた。今回、少し関連する内容を書いていきたい。

時折、「働かない人は日本から消えてくれ」というような意見を目にすることがある。働かない人がいなくなれば社会保障の負担が減るのではないか、自分の生活が楽になるのではないか、という考えからだろう。それに対して、アリ社会と比較しながら、「働かない人がいなくなれば、働いていた人たちの中からサボる人が出てくるだけであまり意味がない」と意見を述べる人が出てくる。
この考え方はある意味正しいとも言えるし、違った角度から見ると正しくないとも言える。


まず、社会全体として考えた場合。
働かない人が消えた世界を想像すると、単純に人口が少なくなった世界と考えてよいだろう。人口が減るということは、社会を維持するために必要な仕事量が少なくなることを意味する。イメージしやすいものとして、食料品や衣料品などを思い浮かべるとよいだろう。人口が少なくなれば、その分生産する量は少なくなる。つまり、社会全体での仕事量が少なくなるので、仕事をしない人が出てくる。アリ社会で見られる、「サボる」個体が出てくるのと近いものがある。これは当然のことだ。
分かりやすく食料品や衣料品を例として挙げたが、ほぼ全ての産業・職種で影響があるはずだ。影響のない職種が頭に浮かばない。人口が少なくなれば争いや事故も減るのだから、警察ですら仕事量が少なくなる。検察、弁護士、裁判官、刑務官なども当然少なくなる。


次に、会社単位で考えた場合。
「働かない人」というのは会社の中にも数多くいるので、その人たちも「消えてくれ」の対象だと考える。会社勤めの経験がない人の中には不思議に感じる人がいるかもしれないが、「働かない人」は役員や管理職に多数いる。彼らが消えてしまえば、(そのポストに人が必要であれば)誰かがそのポストに就いて仕事をするようになる。必要なポストには誰かが就くというポストの玉突きが起きる中で、新たに職を得る人も出てくるだろうし、人員の補充が必要とされない空きポストのままとなることもあるだろう。
空きポストのまま補充されない分は、単純に生産性が高くなる。つまり、業務負担が減るか、収入が増えるか、何かしらの効果があるだろう。
少し条件を加味したりすると、日本の労働環境 マイナスの生産性でも税金を払っていれば価値があるのかで述べたことにも通じる。


現在の社会において、働いていない人たちは「社会を維持するために必要な仕事量に応じたポストには既に誰かが職に就いており、空きポストがない」状態とも言える。
一方、人手不足なので労働力を確保したいが、人が集まらないので海外からの安価な労働力を求める風潮もあるようだ。人はいるのに人が集まらないという、ミスマッチが生じている。
必要な労働に応じた賃金を支払えば人が集まるが、十分な賃金を支払うことが出来ない状況であることがうかがえる。必要な賃金を支払えるようにするためにも、多くの人が適性に応じた職に就くことで社会全体の生産性を上げなければならないと感じる。本当に無駄なところに多大のコストを垂れ流しているので、それを止める必要がある。