雑談 交通事故の厳罰化を望むという意見について思うこと

交通事故で複数の方が亡くなったり、小さな子供が亡くなったりした報道が流れると、厳罰化しろという意見をSNS等へ書き込む人たちが増えてくる。池袋の事故でそのような書き込みも目にしたが、少し落ち着いてきたようなので、私の考えを述べてみたいと思う。
それらの意見について、感情論として分かる部分もあるけれど、何の解決にもならないとも感じる。厳罰化したところで、事故を減らす効果などほぼ無いに等しいだろう。

罰を重くしたとして、罪を犯す前で踏みとどまることができるのは、意図的に罪を犯そうとしている場合だろう。罪を犯して得られる利益と、それに対する罰とを、冷静に比較して判断できる場合だけだ。
ところが、交通事故の場合は意図的に起こすものではない。意図的に起こしていることがあった場合、それは交通事故ではなく、殺人(未遂)や傷害などに該当すると思う。交通事故が意図的なものでないのであれば、罰の重さが事故を踏みとどまらせることに期待できない。

それでは、どのようにすれば事故を減らすことができるのか。これは、非常に難しい。
まず、運転者の意識の面から考えてみたい。交通事故を起こしてはならないことは全ての人が知っている。そして、誰もが起こし得ることも知っている。安全運転を心掛けねばならないことを知っていながら、なぜ事故を減らすことができないのか。
交通事故の原因には、多くの場合、何かしらの交通違反が含まれているだろう。例えば、少しの速度超過、信号切り替り時の進入、無理な割り込み、不十分な車間距離、方向指示器を適切に使用していない、一時停止違反、前方不注意など、その他にも色々な違反が絡んでいるだろう。もちろん、運転手の急な体調不良、車の故障、鳥や小動物との衝突、その他にも交通違反に該当しないケースもあろうが、多くは何かしらの違反が原因となっているはずだ。
それらの違反を犯してしまうのは、やはり油断ではないだろうか。危険だと感じるような経験をしていないので、それらが違反行為であるという意識が低くなり、その様な運転が当たり前となる。警察車両が目に入ったときだけ摘発されないようにする人も多いけれど、それは事故を起こすかもしれないという意識が小さいことの裏返しでもある。事故を起こすかもしれないという考えが二次的なものであるというのは、雑談 飲酒運転について思うことでも書いたことだ。
もし、交通違反そのものを厳罰化した場合、今以上に必死で逃げ、偽装や隠蔽をし、違反を絶対に認めなくなるだろう。警察の目が届く範囲での違反は少なくなるかもしれないが、違反そのものが無くなるわけではない。違反をしたら警察に捕まるという考えではなく、違反は交通事故に繋がる、という意識に変わらねば難しいだろう。実際に事故を起こせば意識が変わるのかもしれないけれど。

次に、ブレーキとアクセルの踏み間違いが事故の原因となることもある。これは車の構造面での問題もあると思うけれど、これも厳罰化したところでどうにもならない。これについては別のところで述べたい。