雑談 日本人は自由が嫌いなのではないだろうか

時々、日本人そのものが「自由」を嫌っているのではないかと思うことがある。かつて、「日本は世界で最も成功した社会主義国だ」とも表現されたことがあるが、その通りだと感じてしまう。


個人の意見は許さず、異論は封じ込めようとする。そして、集団で形成する空気感というものを通して、言論だけではなく行動も相互監視で制限してしまう。これは思想的な自由を奪われていると考えることが出来る。
また、一度就職すると、転職の自由度が低い。転職出来ないわけではないが、労働者数に比べて転職市場が非常に小さいので、結果として会社の奴隷のようになってでもしがみつかねば生きていけない状態になる。このことは、経済的自由度が低いことにつながる。思想的にも経済的にも(一部の人を除く多くの)個人の自由度が低く、社会主義的というか、全体主義的というか、自由とは縁遠い感じがする。


日本人の性質として、個人を犠牲にしてでも日本人全体の繁栄を望むのだとしたら、そして古い日本の価値観を維持し続けていたのだとしたら、それでもよかったであろう。しかし、中途半端に海外からの資本主義・個人主義が入り込んでしまったため、個人の利益を何よりも優先する人が増えてしまい、歪みが生じてきている状態なのかもしれない。この歪みについて述べるには文章の量が増えてしまうだろうし、また、もう少し頭を整理する時間も必要なので、別途あらためて記事を書きたいと思う。


雑談 「後悔しない人生」ってどうなんだろう?でも書いたことにつながるのだけれど、「後悔したくない」というベクトルが強すぎるのではないだろうか。自分で決断して後悔するよりも他人に自分の人生をゆだね、決断しない代わりに責任を他人に押し付ける方がましだと思っているのではないだろうか。いくら責任を押し付けたところで、それは単に心情的な効果しか持たない。現実問題として自分の人生が好転するわけでもないのに。
自由があり、自分で選択する権利を持つことは、自分の人生に責任を持つということでもある。日本人は、自分の人生に責任を持ちたくない人が多いのではないだろうか。そうなのであれば、自分の人生にすら責任を持ちたくないという精神性を持っているのだとしたら、現状の日本企業において「いかに責任を回避するか」が重要であり、結果としてそのような人が昇進して権限を持っていくことも分かる気がする。そして、「責任を回避する」能力は政治家・官僚・企業の役員や役職者、あらゆるところで発揮されている。