雑談 「後悔しない人生」ってどうなんだろう?

今まで「日本の労働環境」カテゴリでいろいろ書いてきたけれど、少し違う話題用に「雑談」カテゴリを作ってみた。

よく耳にする言葉に「自分で決めたことだから後悔なんかしない」というものがある。これって違うんじゃないの?という気がしている。この言葉を、すばらしいとか、格好いいとか、持ち上げているのを見ると、残念な気持ちになる。
後悔というのは、自分で決めたからするものだと思う。自分に選択権がないものは、「後悔」という表現にならないはずだ。洋服を買って、冷静になると似合わなかった場合、どうしてこんな服を買ったんだろうと後悔することはあるだろう。しかし、それがプレゼントで貰った服だった場合には、後悔とは言わないのでは。

例えば、

  • どうして裕福な家庭に生まれなかったんだろう
  • どうして容姿端麗に生まれなかったんだろう
  • どうして先天的な才能(学問・音楽・スポーツなど)に恵まれなかったんだろう
  • そもそも、どうして生まれてきてしまったんだろう

などは自分でどうしようもなく、運命を恨むことはあっても、後悔とは違うだろう。

それほど大きな問題でなく、すごく小さな不幸であっても、後悔できないことはある。すごく、すごく小さなことの話をしてみよう。

随分昔、仕事で地方(無人駅だったかな?)に行った時のこと。仕事も一段落した後、もう我慢ができないというくらいお腹が空いていて、駅の近くに一軒だけお店があった。そのお店のメニュー自体が少なく、ご飯も切らしてしまっていて、すぐに作れるのが焼きそばだけだった。しかし、これが信じられないほど不味かった。
確かに、そこで食べた焼きそばは不味かった。しかし、他のお店にすればよかったとか、他のメニューにすればよかった、という後悔はなかった。自分に選択肢は無かったのだから。この件で後悔すべき点があるとすれば、事前にどのようなお店があるか調べておき、不安があるようであれば事前に携帯食を用意しておかなかったことだ。しかし、その時点では頭の片隅にもなかったことなので、やはり後悔とは違うだろう。
後悔できるということは、自分に自由があり、選択権があったことの結果でもある。後悔のある人生でもいいじゃないか。何一つとして自分で選ぶことの出来ない、奴隷のような人生であれば、後悔すらできないのだ。そのような人生に比べれば、後悔することができる人生も悪くは無いだろう。

後悔してもいいというのは、後悔を引きずって生きていけ、という意味ではない。後悔することがあっても、少し休んで忘れよう。もし、忘れることができないほどの失敗、例えば他人の人生まで狂わせてしまうほどのものであれば、懺悔の気持ちを持ち続けることになるのかもしれない。それでも、懺悔し続けることと、後悔を引きずることは同じではない。後悔したところで過去は変えられない。
どれほど最善の選択をしたつもりであっても、うまくいかないことはあるものだ。もし選択が間違っていたとしても、自分で決めたことだから後悔してはならない、と意固地にならずに、人生やり直せばいい。