雑談 痛みを伴う改革ってどうなんだろう

随分昔、痛みを伴う改革が必要だ、と訴えていた政治家がいた。それを支持した人も多くいたようだ。
私は、当時から強い反感を覚えていた。なぜなら、必要性を訴えていた人たちは痛みを感じないところにいたからだ。自分たちは痛みを受けないくせに、痛みが必要だ、と言っていたようにしか見えなかった。
正確には全く痛みを受けないわけではないだろうが、大した痛みではないだろう。例えるなら、彼らはせいぜい軽い突き指程度の痛みしか受けないのだ。一方、本当に痛みを受ける人たちの中には、生命にかかわる程の痛みを受けた人も数多くいたわけだ。痛みを人に押し付けながら、痛みが必要だと喧伝するなど、なんと不誠実なのだろう。

前回、雑談 浪費と貯蓄で「貯蓄をしなければ将来が不安だというマインドにしてしまった政府の誤り」だと書いたが、そのひとつが、この痛みを伴う改革だろう。
自分自身が痛みをまともに受けたり、そのような人の話を見聞きすると、不安になるのは当たり前だろう。不安になればお金を使わなくなり、経済が回らなくなるのも仕方ない。大多数の人をそのようなマインドにしてしまった政府の誤りの結果でしかない。確か、これ以降「自己責任」の風潮が加速したような気がする。自分自身で老後の備えをしなければならないのであれば、社会にお金を回すことなく、お金を使わず、貯蓄するしかない。
国として改革が失敗だったことを認め、過大な貯蓄がなくても不安がない社会へと政策転換していかなければ、さらに経済が縮小していくだろう。高齢者と若年者では保有資産に大きな差があり、高齢者がどんどんお金を使うようにならねばならない。高齢者が過大な資産を持たなくても不安がない、生きているうちに資産を使い切った方がよい、というマインドに変化させていく方策を考えるべきだろう。