日本の労働環境 成果主義の問題その3

成果主義の問題の続き。

成果を数字で表すことが難しい業務であればともかく、営業のように数字で表せるものであれば成果主義でよいのではないか、という意見も聞く。
一見正しいように思えるが、実情としてはそんなに単純なものではない。

多くの会社では、取扱う商材や取引先などを営業担当に振分けているだろう。この振分けの時点で有利な担当、不利な担当が生じているのである。
それほど苦労をせずとも、ある程度安定した売上げ、利益が見込める取引先と、そうではない取引先があるだろう。商材も同様だ。
とある上司は自分の気に入っている部下に、それほどの苦労を強いられない取引先を振り分けるようなことが現実にあった。有利な者は結果が出やすいので、当然高い評価を得ることになる。

どのような商材、どのような取引先を担当しても成果の出せない人もいる。それは仕方の無いことだ。単純に営業に向いていないだけであり、当人としても営業という職種を望んでいたわけでもないだろう。会社が営業という役割を与えておいて、それで成果が出せないからといって「仕事のできない人」という評価をすることは間違っている。「営業に向いていない人」の評価が正しいだろう。
向いていない業務を担当させるということは、当人にとっても会社にとっても不幸なことだと思う。

 

「日本の成果主義」というもの自体に問題があるのだが、その中で評価される人が役職を得ていくことになる。役職者イコール優秀な人ということではなく、優秀かどうかとは別次元。
なぜあんな人が、という役職者のいかに多いことか。というより、この人はすごいと感じた役職者なんて数えるほどしかいない。

 

いったん成果主義の話題を終わりにし、適性を考慮しない人材配置について書きたい。人材配置も成果主義の問題に深くかかわっている。