雑談 車いすでの映画館利用に関する騒動に思うこと

少し前のことだが、車いすの方が映画館を利用しようとした際、映画館側の補助に関する不満をSNSに書き込みをしたことがあった。


ちょっとした騒動のようなものだったが、少し落ち着いたようなので、映画館側への不満を述べたことに対して個人的な考えを書いておきたい。この方は車いす用のエリアではなくプレミアムシートを利用したかったようだが、映画館側に対する要求として正当と考えられる範囲かどうか、その線引きの問題だ。


車いす用のエリアではなく、プレミアムシートの方が快適な環境であれば、そこを希望したいという気持ち自体は理解できる。この方は歩行障がいをお持ちのようだが、それ以外の障がいを持っている方も映画を楽しむことを映画館(あるいは映画制作側)に対して要求できるのだろうか。
例えば、視力障がいのある方。映画館の迫力ある音響で映画を楽しみたいと思った場合。映像を見ることはできないが、音声だけで楽しむことが出来るよう、テレビドラマの副音声のように状況説明を加えるよう、そのような要求はできるのか。
あるいは、聴力障がいのある方。音は聞こえないが、映画館の大きなスクリーンで楽しみたいと思った場合。海外の映画であれば字幕付きで楽しめるが、邦画の場合にもセリフの字幕を付けてほしいと要求できるのか。


歩行障がいを持っていても他の人と同じように楽しめるように配慮を要求できるのであれば、他の障がいを持っている方も配慮を要求できるべきではないのか。
もしも、歩行障がいであれば楽しむ権利を要求できるが、それ以外の方は不当な要求だと考えているとすれば、それこそ問題であろう。一般的に、障がいの程度によって線引きは必要だと考えられるだろう。しかし、この方は映画館側の配慮を超えた要求をしているようだ。映画館側は車いす用のエリアを用意しているのだから、一応の配慮はしている。これが線引きの対応だと考えられる。
車いすの障がいであればプレミアムシートを利用できるような要求は、対応の線引きを変更するようなものであるが、それが正当だと考えているようだ。映画館に限った話ではなく、これを要求した人は、他の障がいを持った人たちが配慮を求めてきた際、それを受け入れることが出来るであろうか。従来の配慮の範囲ではなく、そのラインを越えたような要求であろうとも、受け入れるべきであろう。

雑談 スマホに全ての機能を集中させたくない理由

スマホのアプリが便利だとの理由で、あらゆる機能をスマホに集中させたいとの意見を目にすることがある。私は、全てをスマホに依存するのは避けたいと思っている。
私自身にとってスマホが必要ないとか、便利ではないと言っているわけではない。過去の経験も踏まえ、リスクがあると考えているから避けたいのだ。


その経験というのは、頻繁にスマホを買い替えるということはせず、割と長期間同じ機種を使い続けるという私のスタンスに依るところが大きい。ある程度長期間使い続けるということは、スマホのOSがバージョンアップされないことになる。そうすると、アプリ側のバージョンアップで旧OSは動作対象外となってしまい、利用できなくなってしまう。そんなことが幾度かあった。
このことは、数年ごとに新機種に買い替える人たちにとっては問題とはならないだろう。しかし、私にとっては見過ごすことが出来ないレベルのことだ。


また、スマホという特性上、外出時等には携行することになるが、操作時に誤って落として破損させたり、あるいは紛失してしまうリスクが高くなる。実際、ごく身近な知人にもそのような経験をした人が少なからずいる。そのような場合、スマホに頼りすぎていると困ってしまうだろう。
バッテリー切れに気付かず、必要なときにスマホを利用できなかった人を目にしたこともある。そういった点でも、スマホに頼りすぎるのはリスクがあると考えている。

雑談 政府が検討している「低所得者への給付」に対する国民の反応に思うこと

政府が経済支援策として低所得者への給付を検討しているとの報道がある。この報道に対し、給付対象から外れる人が救われないことを懸念する声が上がっている。給付対象となるのが非課税世帯であろうと考えられており、それではワーキングプア層が救われないからだ。
働かない人たちが給付を受けられるが、働いても苦しい生活を強いられている人たちは受けられない。それでは、苦しい生活を送っている人たちの収めた税金が働かない人たちへの給付に回っていると思われるからだ。確かに、そのような考え方もできるだろう。中には、非課税世帯への憎しみの目を向ける人もいるようだ。
しかし、働いても経済的に苦しいのは非課税世帯の人たちのせいではない。そのような視点を持ってみてはどうだろうか。


例えば、自分の会社を頭に思い浮かべて欲しい。社員がいくら働こうとも収入が増えないのは何故なのか、会社の利益が増えないのは何故なのか、考えたことがあるだろう。もしかしたら、働いていない社員が目に付くかもしれない。しかし、よく観察してみると、働いていない人のマイナスなど大したことがないと気が付くだろう。働いていないだけであれば、それはゼロなのであってマイナスではない。せいぜいその人の給与分のマイナス程度だ。
大きなマイナスとなっているのは、何もしない人ではなく、余計なことをしている人だと気付くはずだ。マイナスなのだからゼロよりもはるかに悪いし、その人の給与の数倍、数十倍のマイナスとなることも珍しくない。適性に合わない業務を担当している役職者や役員などによる、適切ではない指示で多くの社員が動き、大きな損失となったこともあるだろう。そのようなマイナスを引き起こす人たちが一人や二人ではない。そのような人を見ると、生活できるくらいの給与は貰ってもいいから何もするな、会社に来なくてもいいから、とすら思ってしまう。
このマイナスのことは、日本の労働環境 マイナスの生産性とはどのようなものかで触れているので、そちらを読んでいただけるとありがたい。


自分の会社のことではなく、多くの人が報道で目にしたことがあるような、少し大きな社会問題となった例も考えてみよう。
某中古車販売会社はどうだろうか。レジ袋有料化はどうだろうか。LGBT理解増進法はどうだろうか。マイナ保険証はどうだろうか。某県で検討されていた子ども放置禁止条例はどうだろうか。万博や五輪はどうだろうか。


非課税世帯への給付よりもはるかに大きな社会コストがあり、そちらに目を向けるべきだと考えている。このブログで繰り返し述べてきていることだが、適性に合っていない業務に就いている人が多すぎるのだ。特に影響の大きい政治家や官僚、会社の役員や役職者、そういった人は適性の高い役割に就いてほしいのだが、そうなっていないのが現実だ。
それらを解決するのは簡単ではない。しかし、問題意識を持たなければ状況は改善することが無いし、悪くなる一方のように感じている。まずは一人でも多くの人に問題意識を持つことから始めてほしい。

日本の労働環境 なぜ昔は個人の適性に合わない仕事をしていても日本経済は発展したのか

現在の大きな問題の根っこに、個人の適性に合わない仕事に就いている人が多いことがあると繰り返し述べてきている。このことに対し、先日、とある人から疑問を投げかけられた。「日本は新卒一括採用・終身雇用だったので、昔も個人の適性に合わない仕事をしていた人もいたはずだけど、なぜ昔はそれでもよかったのだろうか」というものだ。


私見を述べたい。
まず、社会全体が経済発展しており、多少のマイナス要因があったとしても発展の方の力が大きく、問題が顕在化しなかった可能性が考えられる。しかしながら、社会全体というのはそれぞれの会社の集合体でもあり、ともに原因であり結果でもあるという関係と見ることもできる。勿論、日本社会全体というのは海外との関係性や日本政府の政策による影響も非常に大きく、無視できないことも分かっているが、あまりに複雑になるので今回は触れない。この側面は、頭を整理する時間も必要であり、別の機会としたい。


別の要因として、誰かが適性の合わない仕事をしていたとしても、それを誰かがカバーしていた可能性がある。昔は個人の業績評価に重きを置いておらず、自分自身だけが業績を上げたとしても待遇に大きな差が出ることもなかった。個人ではなく全体の業績を上げることが求められていたと考えられる。
自分自身の経験としても、誰かが困っている場合には積極的に手を貸したし、私が困っているときには他の人が手助けしてくれたこともある。昔は個人の業績よりも全体の業績が重要であり、相互に助け合う風潮があった。それが可能だったのは、待遇の差が今ほど大きくなかったこともあると思われる。


現在は個人の業績評価が重要視されるようになってしまったため、誰かの仕事を手伝うという動機が大きくならない。それどころか、業績の低い人がいることで相対的に自分の業績が高く見えるのであれば、他の人を手伝わないという動機が生まれることになる。
昔は個人よりも全体の業績が重視されていたため、適性の低い人がいた場合、誰かがそれを補っていたというのが私の考えである。各個人の成果を正しく評価すること自体が不可能に近いということは今までにも繰り返し述べてきている。その前提が正しいのであれば、「優秀だと評価された人」を厚遇するのではなく、各々の得手不得手を補うという企業文化を醸成する方が会社全体の業績が向上するのかもしれない。これは、昔の日本人の気質と旧来の日本企業のあり方が合っていたのだろう。


今となっては成果主義が広く浸透してから二十年以上経過して馴染んでしまっていると感じるし、肯定的に受け入れる人がずいぶん増えてきているようだ。昔とは日本人の気質も変化してしまっている感じがするが、であれば、旧来の日本的企業のやり方に戻そうとしてもうまくいかない可能性もある。まずは旧来の日本人らしさを取り戻すことが先決なのかもしれない。

雑談 とあるお店がキャッシュレス決済を取りやめたとの記事に対する反応

先日、とあるお店がキャッシュレス決済の取り扱いをやめたとの記事があった。その報道に対するネット上での反応で気になるものがあった。
それは、「閉店時の現金突合業務を考えれば2%程度の手数料は安い」という主旨のものだ。そして、この意見はかなりの多数のように思えた。


私はその意見に賛同できない。なぜならば、手数料や入金されるまでの期間はお店にとって無視できるものではないからだ。無視できないことは、コンビニを見ればわかるはずだ。
コンビニは比較的キャッシュレス決済が進んでいると感じている。キャッシュレスでの決済比率は、平均よりも高いのではないだろうか。ところが、そのコンビニですらキャッシュレス決済できない品目がある。代表的なものとして、公共料金やネットショッピング等の代行収納、切手、金券類、地方自治体指定のごみ袋などがある。
もしもキャッシュレス決済によって手数料よりもメリットが大きいのであればキャッシュレス決済を推奨するはずだが、現状ではそうなっていない。


「閉店時の現金突合業務を考えれば2%程度の手数料は安い」という主張は成り立たないと考える。

雑談 システムトラブルの頻発に思うこと

最近、マイナンバーカード関連のシステムトラブルが連日のように報道されている。システムのバグを完全になくすことは不可能であり、システムトラブルは避けようがないとも言えるが、バグ以前の運用設計の不具合も散見される。さすがにひどすぎると感じてしまう。
発注する側がシステムを軽んじているのではないだろうか。システム構築を簡単に考えすぎているのではないだろうか。また、受注する側もコストを下げるために最低限の機能すら下回るようになっているのではないだろうか。


以下に述べることはシステム構築の相見積もりで起こりがちなことである。何か特定のシステムのことを念頭に置いているのではなく、多くのシステムに当てはまる、日常的に目にすることである。マイナンバー関連のシステムで同様のことがあったかどうか、それは分からない。また、実際の開発においては多重下請け構造の問題も絡んでくるが、システム開発に携わったことのない人にも理解されやすいよう、今回はあえて触れない。見積もりの部分にのみ焦点を当てる。
システム構築の相見積もりに当たり、発注者側から複数のシステム構築業者に提案依頼書が提示されることがある。ここには大まかな要件が書かれているのみであり、システム構築事業者はこれを基に提案書(概算見積もり)を作成する。
この提案書の時点で他事業者よりも高額の見積金額であったら、検討対象から除外される可能性が高い。そのため、提案依頼書から読み取れる最低限の機能に絞って見積もり金額を算出することになる。そうしなければ、検討の対象にすらならないのだ。設計段階に入ったら当初の見積金額では収まらないことも分かった上で、それでも最初の段階では安価に見せなければならない。多くの場合、「提案依頼書に書かれていない事項については見積金額に含まれず、詳細設計時に改めて見積もりを提示する」旨のことが記載されている。
提案依頼書はせいぜい数ページから数十ページ程度のことが多い。これが、概要設計書になると10センチのファイルになり、詳細設計書になるとファイルが数冊分になることも珍しくない。つまり、実設計時には提案依頼書に書かれていない膨大なことを補足する必要があるのだ。よく、「システム構築を依頼すると概算見積もりの数倍の費用が掛かった」という話を耳にすることもあるが、当然とも言える。概算見積もりの時点では最低限にも満たない程度のことしか盛り込まれていないのだから。


時折、システム構築に携わったことのない人に説明するときに、「とりあえず動けばいいという程度のシステムを作るのならさほど難しくない。実運用面や耐障害性、保守性まで考慮したシステムを作るのが難しいのだ。」と話すことがある。例えば、運用面において理想的なケースしか想定しないのではなく、イレギュラーなケースをどれだけ想定してシステムに組み込むかで大きく異なってくる。特に、システムを操作する人が特定の担当者のみの場合と、不特定多数の場合とでは想定する範囲が天と地ほどの開きがあると言ってもよい。
このような点をどこまでシステムに盛り込む必要があるのか、これは発注者と受注者双方が開発期間やコストを相談しながら決めるしかない。しかしながら、当初の概算見積もり額が重しとなって、致命的な欠陥を抱えたまま運用開始してしまうことも多々見受けられる。
提案依頼書に書かれている程度の内容でシステムを構築した場合、とてもではないが実運用に耐えうるものとはならない。

雑談 スマホのアプリ決済に思うこと

スマホのアプリ決済を利用する人が増えているようだ。個人的には、アプリ決済が普及することが本当にいいことなのか、少し疑問を持ってしまう面もある。なぜかと言えば、レジで時間のかかる例を目にすることがあるからだ。そして、そのような例が多いとまでは言わないが、決して少なくもない。


時間のかかる典型的な例としては、次のような感じだ。
レジで店員が商品をスキャンし終わり、金額が確定してからスマホを立ち上げてロックを解除し、決済アプリを起動する流れだ。さらに時間がかかるケースとして、決済アプリを起動する前にクーポンやポイント管理アプリを起動し、それから決済手順に移行する例もあるようだ。
また、どの決済アプリを利用するのか店員に伝えもせずに黙ってスマホを差し出し、店員が戸惑うケースも目にする。まあ、この点は決済アプリの統合や「慣れ」などで解消するかもしれないが、スマホの立ち上げや決済アプリの起動にかかる時間については解消が難しい気がする。


決済までの手間が少なくて速いという点では、カード等の方が有利だと感じる。混んでいる時間帯でのアプリ決済を利用する人が多いと、時間がかかる可能性もあると懸念を持ってしまう。